ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢

タイトルぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢
著者Paul Allen
発売日2013/02/19
出版社講談社
ページ数544ページ
評価

概要

原題は「Idea Man: A Memoir by the Co-founder of Microsoft」(アイデアマン: Microsoft共同創業者による自伝)

ビル・ゲイツと共にMicrosoftを立ち上げ、BASICの移植やMS DOSの開発に関わり、Microsoft帝国の礎を築いたポール・アレンの自伝である。リンパ腫が発見され、人生がもうすぐ終わるかもしれないことを意識したアレン氏が自ら本書を執筆している。

前半はまだ一介の大学生でしかなかったビル・ゲイツとポール・アレンがどのようにMicrosoftを立ち上げ、ソフトウェア業界の覇権を握る企業にまで成長させたかが描かれている。

後半からは病気などの要因もあってセミリタイアした後、ビリオネアになったアレン氏が(彼の総資産は2兆を超えるという)NBANFLのチームを買収してオーナーになったり、宇宙船を開発するプロジェクトを立ち上げ有人飛行を成功させたり、脳科学の研究所を作ったりと「趣味人が大富豪になるとこうなる」を体現するような生活を送る日々が綴られている。

本書はMicrosoftがどういった企業かを知る上での非常に貴重な資料でもあるし、同時にデータをテープに保存したりパンチカードでコーディングをしていた1970年代のソフトウェア開発風景を知る上での歴史的な資料としての価値もある。

自叙伝であることのメリットとして、技術に関する描写を専門家である当人が行っているので、ライターを経由して書かせることで誤った表現がされてしまうことが避けられうことがあると思う。

逆にデメリットとして、公平性に欠ける部分や(本書はかなり公平性を意識して書かれたとは思うが、それでも主観が入ることは避けられない)、優秀な人物が自分自身を書くとそれが正確な描写であっても自慢話のように聴こえてしまいやすい問題もある。

本書のレビューをいくつか見てみると、ライターを雇った方が良かったという意見が散見された。確かにそうした方がより読みやすく読者の興味も惹きやすい内容になかったもしれない。

ポール・アレンについて

ポール・アレンは、納品予定のコードにブートローダを付け忘れたことに飛行機の中で気付き、慌ててハンドアセンブルでローダを書いた(しかも納品時にそのコードはちゃんと動作した)という逸話もある、凄腕のプログラマである。

同時に発想力が豊かで、新しい製品が登場した際に「これを使えばこんなことができるんじゃないか」といったことを思いつき、現実主義で利益を重視するゲイツがそれを採択する形で事業を進めることが多かったそうだ。

企業というのは現実離れした目標に向かっても失敗するし、逆にソフトウェアのような相手より一歩先を行くことが重視される世界では慎重過ぎてもうまくいかない。ゲイツはアレンの発案を時期尚早だと判断すれば「まだ無理だね」と秘訣し、十分にいける可能性が出てきた時にはゴーサインを出す。このバランスがMicrosoftを成長させる上でプラスになったという。

Appleはウォズニアックが開発してジョブズが売れるものに仕立てる分業型だったが、ジョブズとアレンはどちらも腕の良いプログラマであり、ゲイツの方が現実寄りという傾向はあったにしても、役割も考えも似たようなところがある2人だったそうだ。

最終的には2人の関係はうまくいかなくなり、アレンがリンパ腫に罹ったこともあってMicrosoftを退社。病気が治ってからは復帰した期間もあるが、深く関与することはなくなっている。

個人的に興味を惹かれた箇所

本文の中から興味を惹かれた節をいくつか引用しておく。

テープの中ほどに新しいデータを書き込んだら、そのあとに収められていたデータがすべて消えてしまう。しかし、DECtapeは違う。データを個々に独立したブロックに分割して保持しているからだ。

当時貴重だったDECtapeについて。彼らの子供時代はまだ書き換え可能なテープドライブですら貴重だった。本文にはそんな時期の(パンチカードでアセンブリを書くような)ソフトウェア開発風景が綴られている。

ドアを1つ隔てたところが、神聖な場所、PDP-10が置かれたコンピュータルームである。そこには、週七日、三交代制で二十四時間オペレーターが常駐していた。

当時はコンピュータは高価な資源であり、夜の間は寝かせておくなんてことはできなかった。

私がアセンブラに興味を持っていると知ると、スティーブ・ラッセルは、光沢のあるプラスチックのファイルに綴じられたアセンブラのマニュアルを渡しに手渡して言った。「これを読むといいよ」コンピュータの世界は、何でも自分でやるのが基本なので、それ以上、何も言う必要はなかったのだ。

こうしたハッカー的な考え方(困ったら自分で調べろ)は今も昔もあまり変わらないようだ。しかしググることができない当時は、今よりずっと問題解決は大変だったと思われる。

ハードウェアのプラットフォームが違えば、コードはまったく違うものになってしまう。ドイツ語とポルトガル語くらいの違いになる。

当時のコンピュータはプラットフォームごとに命令がまったく違っており、移植するには多大な労力が必要だった。アレン氏の感覚ではドイツ語とポルトガル語(相当な差がある)という認識だったようだ。

ビルも私も、実際のハードウェアには一度も触ることなく、この仕事をやり遂げた。

Altair向けのBASICを記述した時の話。実機が手に入らなかった為、仕様書を見てエミュレータを作り、開発環境を用意し、実機に触れることもなく動くものを作り上げてしまった。こうして他の企業よりいち早く物品を見せることにより、まだ二十歳そこそこだったポールとビルはBASICの販売を成功させる。

ビルはメモ帳を三冊と鉛筆を十本持ってホテルにチェックインした。五日後、出てきた時には、何千バイトモノアセンブリ言語のコードができあがっていた。

ゲイツのプログラマとしての逸話。2人とも当時は相当優秀なプログラマだったそうだ。ただウォズニアックのようなハッカー気質ではなく、ビジネスを常に意識する性格だったようだ。

危険な運転も、賭けポーカーも、水上スキーも、すべては同じことだ。皆、一種の逃避手段であり、彼にはどうしても必要なものだった。

ナードとして描かれることが多いゲイツだが、危険なことが好きで、車を走らせるたびに速度違反のチケットを切られる(その対策の為に後に専任の弁護士を用意した)ほどのスピード狂という一面も持っていた。

私は思った。この人たちは、平均的なアメリカ人よりもはるかに働いている、と。どうして、これほどまでに勤勉なのか。こんなに必死に働いている人たちと、果たしてアメリカ人は競争していけるのか。まず無理だろう。事実、この頃すでに、家電に関してアメリカは日本に勝てなくなっていたのだ。

1970年代、24時間働いていた時代の日本に対するポールの評価。良きにしろ悪きにしろそれが日本の原動力にはなっていたのだと思われる。Microsoftも社員の勤務時間は相当長い会社だったと聞くが。

イーサネットもやはりPARCで開発された技術で、ゼロックス社が特許を取得している。

Apple、そしてWindowsの元になったGUIを開発し、イーサネットも開発していたPARC。後にアレン氏はPARCのような研究所を作り出そうと自らの出資で会社を立ち上げるがうまくいかなかったという。

この裁判はマイクロソフトに非常に大きな影響を与えた。まず、とくにビルが多くの時間とエネルギーを奪われた。規模は大きくなっても相変わらず「超中央集権」で、意思決定の大半をビル一人で下していたから、CEOが仕事に集中できなければそのダメージは大変なものになる。

独占禁止法の問題で、一時はOSとアプリケーションで分社化する判決まで出た(後に覆る)頃の話。この後、ゲイツは社長業をバルマーに譲るなど、徐々に経営からフェードアウトし、慈善事業へとシフトしていっている。その後のMicrosoftは社内政治が盛んに行われるような平凡な大企業になっていってしまった、というのがアレン氏の感想のようだ。

余談だが、Appleの戦略はもし市場の過半数を確保してしまったらすぐにも独占禁止法に引っかかる内容が多く含まれるが、大勢を占めるまでシェアを得ていないことがうまく働いているように思う。

多くの人が「長いメールを書く時や、本格的な書類をさくせいする時にはPCを使うけれど、普段はiPhoneとiPadでほとんど用が済んでしまう」などと言いはじめたら、それはPCにとっての弔いの鐘だといえるだろう。まだ、そこまでに至っている人は少ないかもしれないが、近いうちにそうなるはずである。

2010年頃、iPadの第一世代が登場してからそれほど経っていない頃のアレン氏のタブレット評。数年の後、確かに世界はそうなった。